「安藤忠雄 野獣の肖像」を読んでみて

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こちらの記事(安藤忠雄の新たな魅力を発見!「安藤忠雄の奇跡」を是非読んで欲しい)で読みますよ、と宣言していた本を読み終えたのでご紹介したいと思います。

都市論・建築論が専門の古山正雄氏が著者で、住吉の長屋以前から安藤忠雄氏と親交のある人物です。

安藤忠雄氏の人柄、思考、生い立ちなどを詳細に書き連ねている他、専門の建築論についても記述があり、なかなか読み応えがあります。

いかにして安藤忠雄は安藤忠雄になったのか、世界の安藤はどのようにして独自のスタイルを確立したのか、などなど漠然と知っている、感じているようなことの確かな根拠、理由がビシバシとわかる刺激的な本となっています。

今回も、気になった部分、心に残った部分を抜粋してご紹介したいと思います。

ただ、前後関係があってこそ本当の意味が理解できる部分もあると思いますので、気になった方はぜひ、読んでみることをオススメします。

安藤忠雄 野獣の肖像
by カエレバ

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安藤忠雄:野生の肖像 印象に残った部分

 彼はよく「それはパターンやろ」と言う。それらしく整理されている計画案だ、いい悪いではなく段取り仕事になっているという意味だ。プロにありがちな、根本的な疑問が感じられない答えであり、そこに感動はない。
 彼はまた「それはデザインやろ」と言う。これは美顔術的という意味だ。悪くはないがプチ整形では、改題解決よりも隠蔽工作になってしまうからである。
 彼が心を動かされるときは、
「これは人生がかかっているよ」と言う。
 命がけの真剣勝負の怖さが感じられる表現だという意味である。

彼は今も、ボクサー時代の自己鍛錬を続けている。毎日寝る前の運動―ストレッチ体操、歯茎を鍛え、視力を保つトレーニング、腹筋運動、背筋運動、上腕筋の運動を、50年間おこたったことはない。継続は力であるという安藤の人生観の表れでもある。

安藤いわく、「自分が好きだと思う食べ物は、好きな食べ物ではない。毎日毎日、飽きずに食べられるものこそ、好きな食べ物だと思え」

「都市ゲリラ住居」プロジェクトの趣旨説明の一節
【時代の流れに敏感な建築分野では〈多様化〉に呼応して、〈カプセル〉〈ポップアーキテクチュア〉〈ヴァナキュラリズム〉〈アノニマス・アーキテクチュア〉〈デザイン・サーベイ〉等々、ヴォキャブラリーも多岐に及び、まさに百花繚乱の感が濃いが、そのような現代のカオス的断面の中で、〈都市ゲリラ住居〉は、いかなる意味をもちうるか。

「建築はある程度美しくなければ誤解されるね」という一言である。美というものに対する彼の立ち位置をよく表している。彼は耽美的な人ではないし、美の女神に仕える人でもない。美というものを絶対視していないのだ。
 この言葉は「自分の意図するところを誤解なく伝達するためには、やはり美が必要である」ことを学んだという意味である。

そのとき彼の頭に、パルテノンとコルビュジェを結ぶ補助線は数学だと閃いたのだ。安藤の「数学とは即ち、建築に潜む人間の理性の力である」という言葉を逆に読めば、建築とは理性の力によって秩序化された空間である、ということになる。この理性とは、幾何学と翻訳するのが妥当である。明晰な幾何学が支配する明るい空間という安藤建築の基礎は、こうした体験から生まれてきたものであろう。

安藤も後年、歴史的建造物の保存計画や再生計画に取り組むことになる。ロンドンのテイト・モダンのコンペのときには古い発電所と現代建築が激しくぶつかり合う造形を提示したが、その後、京都府の「アサヒビール大山崎山荘美術館」の場合は、主役となる保存建築はそのままに、地下空間に新機能を追加してみせた。歴史的な建物を保存修復し、現代建築を地中に潜らせるスタイルは、安藤の発明であり得意技となっていく。地中の活用という大胆な提案は、直島の「地中美術館」で景観保全の方法として、また外観と内観の複合した地下空間を生み出す方法として大規模に展開された。

安藤にとって、建築的解答は感動を呼ぶものでなければならない。あまりにも説明的に過ぎる建築は、いくら破綻なくできていても好みではない。彼の建築作品における感動の源泉は、明確な幾何学と詩情あふれる空間にある。言葉で言い尽くせる建築案は廃棄し、言葉では説明しきれない詩情が感得できるような作品をめざしている。

いわゆる話題作、ヒット作をつくり続けるのはデザイナータイプの建築家であり、安藤がめざしている建築家像とは微妙に異なる、ということである。流行作家やデザイナーのように器用に振る舞うことが苦手なのだ。彼は、ボディブローのように重い刺激が長く続いてほしいと考えている。

安藤忠雄という人は、「祖母の教え、プロボクシング、一人旅」という3つの要素から成り立っている。これだけでもかなり風変わりな人であるが、彼の不思議な魅力はそれだけでは語り尽くせない。能力や美徳や性格といったポジティブな要素をいくら並べ立てても、安藤忠雄らしさには到達しないからだ。常識が書けている。日本語能力は未発達である。建築作品についても、代表作の「住吉の長屋」には屋根がない。ファサードがない。

美を感受するということは、自分の中の欠如を強く意識することでもある。美的体験とは自分の内なる欠如の痛みと同時に悦びを体験することだ。ツムトアは欠如の働きに関して、ドイツの作家マルティン・ヴァルザーの次の言葉を添えている。
「なにかが欠ければ欠けるほど。欠如にたえるために動員しなければならないものは美しくなり得る」
安藤忠雄と「住吉の長屋」に献上したい言葉である。

(安藤忠雄事務所において)
外国の仕事は、主担当者が最後まで責任を持って仕上げるという仕組みである。経費という点でも、合理的であり、この方式で失敗したことはないという。担当者のプレッシャーは大変なものだと思うが、その代わり給料は高い。建築事務所としては破格に高いと思う。

安藤と知り合ってから、かれこれ40年になるが、事務所での様子は全く変わらない。世界的建築家となった今日、多くの国の金持ちが安藤ブランドを買いに来る。海外での仕事が増え、依頼される建築はますます大きくなっているものの、安藤は超高層や巨大建築にはあまり関心がない。彼はいつも、「建築になるのは2000坪くらいまでだ」と言っている。あまりにも巨大な構築物や超高層ビルは建築にはならないと考えているのだ。それでもなお、巨大建築とは何か、を研究している。こういうところが安藤の偉いところだと言ってしまえばそれまでだが、受け入れがたい事象についても、納得いくまで考え続ける性分なのだ。

安藤は大阪弁で出来ている
安藤忠雄は大阪の建築家である。多くの人が、疑いもなく彼は大阪を代表する人であると考えている。世界の建築関係者もまた、安藤は大阪人であることを知っている。筆者もそのことに異論はないのだが、大阪生まれの大阪育ちであるからといって、自動的に真正の大阪人になれるわけではない。安藤はどこかの時点で、大阪人になることを決心したのである。

安藤忠雄:野生の肖像 安藤忠雄氏の言葉

70年代当初は、歴史的に見ればモダニズムの教条主義への反発から、それを乗り越えるべくポストモダンムーブメントが世界を席巻し始めたときである。周囲は私の書いた論文と掲載された写真の攻撃的なイメージとを重ねて、既成の社会、既成の建築概念に対する建築家の強固な意思表明として受け取り、私はモダニズムへの意義を唱える一人に数えられるようになった。
正直、私自身はいわゆるポストモダンブームには全く興味はなかった。むしろ言葉ばかりが先行する風潮にある種の嫌悪感を抱いていた。しかし、ゲリラを名乗ったのは、モダニズムという建築主義に抗うためではなかった。私が挑みたかったのは、モダニズムの透明な論理で御しきれない矛盾に満ちた現実の都市であり、つくりたかったのはむき出しの生命力に満ちた不条理の空間だった。今思えば、建築というよりも彫刻を作っているような感覚だった気がする。その都市ゲリラ住居の延長線上でつくったのが、1976年の住吉の長屋だった。

安藤忠雄 野獣の肖像
by カエレバ

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